和晒ってなに?

【和晒の特徴】

堺市の石津川沿いに7軒の和晒工場があり、この7軒で日本の和晒の90%以上が生産されています。

和晒の特徴は、江戸時代と同じく、いまも「釜」で炊くことにより晒加工を行っていることです。

同じ木綿の生地でも、皆さんがよく使っているワイシャツやTシャツなどは、和晒よりも巾の広い生地---広幅の生地で作られています。
これらは「連続自働精錬機」とよばれる機械を用い、40分ほどで晒加工品に仕上がります。生地に常時圧力をかけた状態で精錬しますので、木綿の繊維はやや扁平になります。
これに対して和晒は、2日から4日間ずっと釜にいれた状態で、煮られながら精錬され、水洗いで洗浄し、次々と工程に重ねていきます。圧力がかかっていませんので仕上がった木綿の繊維は円形を保っています。
この円形の状態が、「日本の染色」にはもっとも重要な要素になっているのです。たとえば注染は染料を生地の上から注ぎ込んで染めます。繊維と染料が接触する時間はほんの一瞬です。ふんわりと丸い繊維で、吸収がよくないと染色はできないのです。

洋晒しと和晒しのちがい

洋晒し 和晒し
設備 連続自動精錬漂白機 日本でも希少な和晒釜
晒し時間 40分~90分 24時間~48時間
12時間/日稼働
繊維断面
断面の理由
やや楕円形
様々な角度から圧力がかかるため
ほぼ円形
釜の中の水圧のみ
風合い 固め 柔らかい

ゆかたや手拭の風合いはこの繊維の仕上りからきています。肌にやさしく、環境にやさしく、日本の風土にあった生地なのです。

【和晒の始まり】

そもそも、天然の木綿は、綿自体に脂質や不純物、色素が含まれており、独特の匂いもあります。また、綿糸から綿布をつくる際には、縦糸(たていと)にサイジング糊を添加します。

木綿の生地を染色するためにはこれらを取り除く必要があります。この工程を精錬と呼び、白く晒し、染色できる状態に仕上がった小幅木綿を和晒と呼びます。江戸時代の初めから行われてきました。

和泉の国では、大鳥郡地域の農民が、稲作の半分近くを木綿作りに転換したのは、いつの頃からか明確にわかりませんが、和泉の国踞尾村(現在の堺市西区津久野町)では寛永3年(1626年)に、すでに田に木綿がつくられていたとの記録が残っています。
和泉の国ではこの大鳥村地域が木綿の特産地であったらしく、田畑の50%以上で木綿を栽培していた、と『土居通和文書』は元禄7年(1694年)の作付面積を伝えています。

反 別
田 方 畝 歩
木綿 334.408 2,216.03
( 上 38.046 249.12
( 中 274.175 1,615.11
( 下 49.187 351.10
375.881 2,544.25
( 上毛 62.216 417.04
( 中毛 217.127 1,465.25
( 下毛 96.538 661.26
小 計 710.289 4,760.28
畑 方 木綿 197.829 1,638.09
( 上 18.358 140.07
( 中 120.275 987.14
( 下 59.196 510.18
雑子屋敷共 145.696 1,284.24
小 計 343.525 2,923.03
毛 付 高 1,053.814 7,684.01

元禄7年(1694)の大鳥村の作付(堺市史)

また、大和川沿いの河内の国でも、和泉の国と同じく江戸時代初期から木綿の栽培が盛んであったことを示す資料が現存しています。

1645年に刊行された毛吹草(けふきぐさ)第4巻は諸国の名産物が記されています。このなかに河内の特産品として「久宝寺木綿」が紹介されており、江戸時代の初期から畿内で綿織物が盛んに製造されていたことがうかがえます。

毛吹草 早稲田大学図書館蔵

【江戸時代の石津川】

江戸時代、商都大阪を控えた泉州では、糸を紡ぎ、機を織って生布(きばた)を生産する農家も増えてゆきました。並行して石津川の流域で「大釜」をつかって和晒の生産が始まりました。当時の和晒は、炊き納屋で生布(きばた)を大釜に積み、その中に木灰や綿のむき殻の灰で作られた灰汁をいれ煮立てることで、木綿の脂質や不純物を取り除きました。

しかし一度炊いただけでは到底除去することはできません。

炊いた生布を川辺で乾燥させ、又釜に積んで炊く。この工程を3度4度と繰り返し、最後に川原に据えられた木臼でつき、水洗いして川原、野原に広げて乾燥させてようやく仕上がります。木臼でつくのは布に含まれた悪水をとりのぞき、光沢を出すためでした。およそ一か月かけて和晒は仕上がりました。石津川が軟水であったことや、海岸から近い丘陵地であった地形も幸いしたと伝えられています。海から吹いてくる西風にはオゾンが大量に含まれ、その防腐・殺菌・漂白作用も質の良い和晒の要素と考えられています。

こうした和晒の生産は在郷の木綿問屋が担っていました。木綿問屋1軒の当時の生産量は1日当たりだいたい50反ほどと言われています。石津川沿いの木綿問屋の繁栄は、寛政7年(1795年)につくられた「和泉名所図会」、明治初年の「住吉・堺名所并豪商案内記」がいまに伝えてくれています。


寛政7年作、享保2年刊「和泉名所図会」


明治初年刊「住吉・堺名所并豪商案内記」

石津川沿いの和晒工場は明治、大正、昭和と日本の発展、人口の増加とともに繁栄をつづけました。昭和40年には、全国で109軒、そのうち石津川沿いには30軒が操業していました。当時、「注染ゆかた」が年間1000万反も販売され大流行していたこと、まだ紙おむつが無く、和晒製「おしめ」が主流であったこと、がその主な理由です。その後、和装が年々衰退したこともあって、和晒工場は激減し、いまでは日本の和晒生産のほとんどを堺市の組合員7社が占めることになりました。

わたしどもオリセンの和晒工場7社は、江戸時代から300年以上つづく伝統をまもり、日本のみなさまにいつまでもご提供できるように今後とも頑張って参ります。